Lights in the City – 写真を始めたきっかけ

カメラを使い始めたのは高校生の頃。写真を撮ることが好きだった。ただその頃は、まだフィルム写真の時代で、自由に好きなだけ撮ることができたのは、デジタル写真の時代がやってきたときからだった。キャノンD30 デジタル一眼レフを手に入れて、7年間愛用した。

アートとしての写真を意識して始めたのは40代半ばからだった。学校で写真を習ったことがなかったので、アートとしての写真をダマソ·レイズ氏から学んだ。カメラはD30からLeica M8に変わり、フルマニュアルで写真を撮ることを学んだ。

写真を追求していくうちに、時々「アートとは何か」とか、「なぜ自分は芸術活動を選んだのか」などについて、深く考えることがあった。結局のところ、これらの問いは、生きることの意味とは何なのかという答えを探すことと関係していたと思う。

(原文)

I started using a camera when I was in high school. I loved taking pictures. But at that time, it was still the era of film photography, and it was only when the era of digital photography arrived that I was able to take as many pictures as I wanted. I got a Canon D30 DSLR and used it for seven years.

It wasn’t until my mid-forties that I started to consider photography as an art form. I learned photography as an art form from Damaso Reyes, as I had never learned photography in school. The camera changed from a D30 to a Leica M8 and I learned to take pictures in full manual mode.

As I pursued photography, I sometimes found myself thinking deeply about what art is and why I chose to pursue an artistic activity. Ultimately, I think these questions had to do with the search for an answer to what the meaning of life is.

写真を知るために〜映画との違い〜

写真と映画はどちらも視覚的な芸術でよく似ているように思える。映画の一シーンのような、と写真が形容されることもある。ぼくは写真に関連して映画、絵画などとなにが違うのかずっと考えてきた。それは「写真とはなにか」という疑問があってのことだった。

これらの芸術はそれぞれ異なっている。今回は特に写真と映画について考えてみたい。ぼくは正直に言ってその違いが最初よくわからなかった。それは写真がなんなのか映画がなんなのかがよくわかっていなかったからだろう。自分でドキュメンタリー映画を作り始め、また好きだった映画を芸術家として見なおした時に、写真と映画がこれほどまでに違うものだったのかということが、まずわかった。同時に、ある部分では重なることもあることも知った。

色々なアプローチの仕方があるが、まず第一に写真は個人的なもの、映画は共同作業であるところが異なる。写真ではスティルイメージのみを基本として扱う。対して映画は映像、音声、音楽など複合的なもので多くの人々が関わる。ここで監督と等価なのは写真家だが、脚本家もまた写真家の位置にいるだろう。

さてそのような制作面での違いがこの2つの芸術形態にどのような違いをもたらすだろうか。

写真と映画はその芸術としての効果が違うのである。写真は個人的なもので鑑賞者と写真家は直接対話を行う。映画は全体としてストーリーが鑑賞者に訴える。

 

ストリートフォトグラフィの定義

写真を撮り始めて何年にもなる。その間に時々考えることがあった。ストリートフォトグラフィとはなにか。

インターネットで探したり知り合いの写真家に聞いたりしたが、いまひとつ納得できるものは見つからなかった。

定義できない、あるいは定義は人によって違うという結論になることがほとんどだ。ところがある特定の写真についてそれがストリートフォトグラフィかどうか、実はそれほど意見が割れるわけではない。

ということは、定義できるはずのものである。
そしてあるとき気がついた。自分がその定義をずっと外に探し続けていたこと、大きな間違いをおかしていたことに気づいた。

ストリートフォトグラフィとはなんなのか、それはずっと自分の中にあった。そこで自分に見つけてもらうのを待っていたのだった。

ストリートフォトグラフィとは

“写真家それぞれの持つ独自の視点により、人と人が創造した屋外環境との動的な関係性を表現した芸術写真”

“What is Street Photography?”

“Images created from the photographers’ distinct point of view to capture the dynamics between humans and their created outdoor environments”

 

definition of street photography

 

ストリートは人間が創りだした。我々人間だけが創造する力を持っており、その自ら創造した環境の中で生きている。我々人間は創造したもの、人工物と生きることは密接な関係を持っている。ストリートフォトグラフィは写真によってその自らが創造した環境の中で生きる人間と外にある人工物との関係を、独自の視点により写真によって表現した芸術写真である。

外と限定しないと家の中で撮った写真もストリートフォトグラフィとなってしまう。ビーチで撮った人の場合はどうかと言えば ”ビーチ” という特別な場所を自然の海辺からクリエイトしている。自然そのままを相当生かした場合にストリートフォトグラフィの限界点があるのだろう。

自らがなにをしているのかについて自覚すること。それはよい写真をつくるためには必要なことだと今更ながら考えることになった。

生まれる写真


写真を撮ってから、時間の経過によってあるいは何度も見ることによって写真は変わっていく。写真家は何度もその絵を見る。撮る前に想像で、撮ったその瞬間、コンピュータに移し調整するとき、エッセイとして編集するとき、プリントするとき、展示のとき。

その度に写真家はその絵と対話する。すべてが写真活動のなかにある。撮った時ですべてが決まるのではない。それは写真が視覚的言語で書かれたものだからである。その瞬間を捉えたことは始まりにすぎない。捉えなかったものすべてをも表現している。捉えられなかったものも視覚的言語によって表現できる。

オバマの写真にハイライトがかかっているのが撮った直後は気に入らなかった。それが何年か経つと逆に気に入った要素になった。


 

新たな時間


ある瞬間、世界のある場所、あるどこかの部屋でどんな暮らしがされているのかは、そこに行かなければ見ることはできない。その一瞬の光景は次々と現れては消えていく。

それを写真家が写真に収める。一度収められたイメージは何度も見ることができ、それによって新たな意味を持ち始める。写真におさめられた人、光景と見る人の間に会話が生まれる。そしてそこには写真家がいる。

写真家は自らの過去の一瞬に起きた視覚を通した関係を写しとった。

現在の時間を止めたことが新たな時間、新たな関係を未来に向けて生み出す。

部屋はほとんど光がなく薄暗かった。カメラで光景を捉えるのはほとんど無理だった。冷蔵庫が開けられて光が部屋にもれる。光景が写真になれる短い時間が現れた。


 

現在の決断


写真は限られた表現方法である。限られた表現方法だからこそフレーム内のすべてに慎重でなければならないし、自覚的でなければならない。

限定された表現の中だからこそ多くのことが求められる。もっともそれは写真家が全てをコントロールすることを意味しているわけではない。絵画との違いはそこにある。写真家は積極的に何をどう撮るのか、何をフレーム内のどの位置に収めるのか、何をフレームから外すのかを決める。

それを現在の時点で決断する。過去はすでに過ぎ去り未来は誰にも予想できないのだ。人生とよく似ている。我々はいつでも色々なことで迷い戸惑っている。そして決断を迫られる。自ら決断するときもあるし他のことからそれを選ばざるを得なくなることもある。

写真を撮るときに目の前の光景がベストなのかどうか答えはない。できることはこれだと決めてシャッターを押す現在の決断のみである。


 

自分の写真の客観的な見方


1)楽して撮った写真ではないか。「撮りに行った」写真か。(カメラに撮らされてないか、ファインダーをきちんと見て構図を決めたか)
2)何が言いたいのか。それが言う価値のあるものなのか。言いたいことがきちんと表現できているのか。
3)用いたレンズが生きているか。広角で正解だったのか。標準がベストだったのか。
4)シャッタースピードや絞りの設定は適切だったのか。(優先順位は実は低くてかまわない。意識することは必要。経験とともに上達できる)
5)誰かのマネになっていないか。自分が撮ったことのある写真の繰り返しになっていないか。(常に新しいイメージを追うこと。結果的に誰かに似てしまうことはよくあるのでその場合は問題ない)
6)フレーム内で全ての要素が意味を持っているか。フレーム外が撮れているか。
7)自分にしか撮れない写真か。最も重要なポイントとなる。
8)自分のために撮る。人に合わせる写真は依頼を受けたときだけでいい。
9)同じシーンでもできるだけ枚数を撮る。できるだけ粘る。(そういう方法をとらない写真家もいる)
10)同じ場所に何度も戻って撮る。新しい発見がある。それがモノの見方を成長させる。
11)頭を使って撮る。慣れてくれば無意識にできるようになるが、最初はよく考えて撮る。
12)楽しんで撮る。写真を撮ることは楽しいことだということを忘れない。自分との戦いになるがそれを楽しめるかどうか。
13)スランプは必ず来るので、十分休んだり、被写体を変えたりすることも大切。

 

よい写真と優れた写真

良い写真と優れた写真


よい写真とはどんな写真を言うのだろう。そして優れた写真とはどんな写真なのだろう。

写真には技術面と内容面という二面性がある。技術面はテクニックのこと。頭で理解できるし、人から学ぶことができる。カメラの使い方とか。

内容面はなにを見る人に伝えたいのか。出来事、感情、物語などだ。景色の「美しさ」を例にして写真家がどんなプロセスで絵をつくっていくのか考えてみる。

ある景色を見てそれが美しいと思った。これは写真家の心に生まれる。内容面。写真家はここで条件反射的にシャッターを押すかもしれないし、じっくりと見て時間をかけて撮るかもしれない。

カメラのレンズ、露出設定、構図などを決める。技術面と言って差し支えないだろう。

「この美しさをどう撮るのか」ここで内容面を考える。どう技術面を使うのかとは少し違う。おおっと感動したときに、そこで反射的にシャッターを押さずに考えるのが重要だ。

なぜ自分はこれを美しいと思うのか。なぜ自分はこの美しさを自分の写真として作品にしたいのか。
どのような方法、技術を使えば、記録ではない、自分の作品ができるだろうか。

そう、写真を撮るときにやっている大半のことは、自分自身の心の中を理解することである。


 

 

 

物語のある写真


よい写真とはどんな写真のことをいうのだろう。そもそも説明できるものなのだろうか。撮る側なのか見る側なのかによって違ってきそうな気もするし、違わないはずだと思ったりもする。物語のある写真はいい写真だと聞くこともある。

物語のある写真

それは必ずしもドキュメンタリーのような出来事を直接伝える写真のことだけをいうのではなくて、もっと幅広くすべてのジャンルで物語のある写真は確かに存在している。雰囲気のある写真ということもあるかもしれない。

音楽のように。

音楽もまた幅広いジャンルがあるけれども、たとえばクラシカル音楽や映画音楽は心や感情を支配する脳の中のどこかの場所に直接入り込んでくることがある。理屈や説明を飛び越え心を動かす。

美術館で印象派の有名な人の、でもそれほど人気のあるものではない地味な絵画を見ていたとき、突然自分の心が動かされて強い感動を覚えた。理屈では説明することができないものだったが、「ああ、音楽と同じところが反応してる」と思った。脳のどこかの場所。

ぼくは言葉で説明できることなら言葉で説明すればよいと思う。写真でしか伝えられないことを伝えることが究極的な目的。写真は視覚の延長だから視覚の可能性を探る。その過程のなかにきっと写真でしか伝えられないことがあると思う。

写真家がどのように世界を見たのか、それが伝わってくる写真。